毎月1点アンティークの逸品をご紹介します。

夢織のおすすめ

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ヴィクトリア女王(1819〜1901)

ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(1819〜1861)

ヴィクトリア女王とアルバート公の結婚

右側:黒を身にまとうヴィクトリア女王

「王妃と吟遊詩人」刺繍額絵

1870年代 イギリス

刺繍………選び抜かれた糸の色彩と、職人の高度な技術、根気強さ、そして時間が織りなす細密画。
今月の夢織のおすすめは、1870年代イギリス製の、巨大な刺繍額絵についてお話いたしましょう。
王妃と吟遊詩人が秘密の会話を交わす濃密な瞬間が描かれた構図。この構図は、弊社社長萬田あけみを、海を隔てたある場所へ導くことになります。時空を超えた出逢い………。
それでは細部を見ていきましょう。

         

目の前に広がるのは、ヨーロッパ中世のお城の中の風景です。まず、窓に惹きつけられます。教会の窓に施されるトレサリー型です。細長い窓を組み合わせ、上部に円形のステンドグラスを組み合わせたもの。ステンドガラス部分には、ガラスのスパンコールが縫い付けてあります。古いガラスのスパンコールは、色彩に深みがあり、一つ一つが味のある異なる形です。窓上部に見えるステンドガラスに描かれた聖人画は、光の反射まで忠実にステッチされ、おぼろげに浮かび上がります。鉛止めの窓の向こうに広がる中世の暗い森さえも丁寧に丁寧に刺繍されています。

          

窓の傍らに見える、聖母子像。幼子イエスを抱擁するマリアの慈悲深げな姿が、気高く描かれています。
柱の上部にロープが張り渡され、深紅の布が掛けられています。「赤」は、ヨーロッパでは中世から高貴を表す色でした。色あせない赤を染めることは、当時の染織家にとって最も頭を痛めた課題でした。「赤」を実現するには、おびただしい回数の実験と、気が遠くなるような時間と努力が必要でした。このようにしてできた赤い色の布が、とてつもなく高価になることは必然でした。ゆえに王族や上位聖職者のみに所有が許された色だったのです。この布は、ボリュームから察して、タペストリーであることが推測できます。王侯貴族は、季節ごとの館を所有しており、移動には必ずタペストリーを運び、壁にかけたり、部屋を間仕切るカーテンとして使用しました。

          

シェニール織の愛犬が侍っています。この犬は、猟犬のグレイ・ハウンド。優れた猟犬は貴族にとっての財産と考えられ、お輿入れの際には持参金として嫁ぎ先に献上されたと言われています。とくにグレイ・ハウンドはかつて貴族のみに所有を許された犬種。うやうやしくマントを羽織っています。

          

王妃は、傍らの獅子の紋章らしきものが見える布を掛けたテーブルの上に、冠を置いています。ボリュームのあるテンの毛皮が付いたローブ。シェニール織の質感が毛皮の深い毛足を表現しています。ずいぶんと背もたれが高い木彫が施された椅子に腰かけています。吟遊詩人は、王妃の膝の上の本に手を添え、大ぶりのルビーのペンダントを掛けた胸に左手を置き、何かを誓っています。吟遊詩人の何かを訴える真摯なまなざし、王妃の、情熱をつきつけられ戸惑った表情を浮かべている様子も、プチ・ポワンの精密なステッチが実現させています。熱情とゆらぐ心。ふたりに訪れた、瞬間。

これは、萬田あけみが体験したお話です。ヴィクトリア女王が終末を迎えられた、イギリス本土からイギリス海峡を隔てたワイト島のオズボーン・ハウスを訪れた時のこと。女王のベッドルームは、壁中にキリスト像が描かれた額絵が掛けられ、おごそかな静寂がただよっていました。ふと、ポールに隔てられたマントルピースの方が気になって、見ると、この刺繍画と全く同じ画が刺繍されたファイヤースクリーンがあるではありませんか。イエスや聖人に取り囲まれた寝室に、王妃と吟遊詩人が、見つめ合う姿………。

最愛の夫・アルバート公を失い、失意の中、黒しか身にまとわず、宝石さえ黒いジェットしか選ばず、打ちひしがれ、国政も顧みらず、公の場所からは遠ざかり、もはや生きる力さえ失いかけた女王に光をもたらしたのは、馬蹄のジョン・ブラウンでした。馬をこよなく愛した女王が、誰よりも馬を愛し大切に扱ったブラウンを信頼するのは自然の成り行きでした。武骨で一本気のスコットランド人に、女王が気持ちを開くのは、不可抗力だったのでしょう。女王の寝室に置かれていた「王妃と吟遊詩人」。57歳の若さでブラウンがこの世を去った後、女王を支えたのは、アルバート公への懺悔だったのでしょうか。束の間ブラウンと過ごした、鮮烈な思い出だったのでしょうか………。

         

女王の寝室に置かれていた「王妃と吟遊詩人」、そして夢織を象徴する踊り場の壁を飾る「王妃と吟遊詩人」。驚きと共に、萬田が女王の寝室を退こうとドアの方を振り返り、ふと目を留めたベットカバーに、「萬」という文字が刺繍されていました。
それは、中国の皇帝から女王に献上された極上の絹織物で作られたベットカバーだと、説明を受けました。
このお話を聞いて、私には、何か不思議な力が働いて女王が萬田をそこに導いたように思えてしかたがないのです。

アンティークは、美しく、ふれるたびに幸福で人の心を満たすばかりではなく、巡り合わせ、出会う運命、「或る物語」を、人生にもたらしてくれるもの。戸惑いに似た不思議な感慨が、波のように心に打ち寄せます。

         




狩りの風景に描かれたグレイ・ハウンド

名画に描かれたトレサリー型の窓

トリスタンとイゾルデ

本作品はプチポワン展でご覧いただけます。